先日ここに書いた
祈り=意載り
という話の続きです。
誠意(まことのこころ)を
掌に載せ神に捧げる
それが祈りだと。
昨夜あることを祈り
眠りについたのですが
神やんは夢の中で
「通じてるから
別に、わざわざ
言わなくていいよ」
と言いました。
え?そうなの?
でもさ…
と、私は思いました。
相変わらず分かりにくい
神やんのメッセージですが
冷たくされた感はなくて
なんとなく、いい感じ。
なので、そのいい感じを
味わってみました。
おそらく、いや
もしかしたら
こんなことかも?
ということを書きます。
............
神やんからのコンタクトを
そのまま受け取ることが
私の役割です。
自分の悩みとか願いは
全て神やんに通じていて
必要があれば何か伝えるし
伝えない方が良い場合もあり
タイミングや表現を含め
神やんに、おまかせで大丈夫。
こちらから何かを祈ること
それ自体が、自分勝手というか…。
あ~、これ、言葉にするのが
とても難しいです。
真摯な、敬虔な祈りを
日々捧げていらっしゃる方には
本当に、ごめんなさいm(__)m
祈ることが、ダメだとか
そういう話ではなく。
どうか△△してください。
という表現をした途端
その祈りには、自我が
のっかってしまう…
…と感じるのです。
神やんを利用する
とまでは言わないけれど
こちらの都合に
合わせてもらいたい
…という感じ。
お願いごと、ではなく
ありがとう、が
祈り、なのかな…。
私が神やんを利用するのではなく
神やんに私を利用してほしい。
もうちょっと、マシなこと
書けないのかね?私。
今日の「祈り」考察は
これまでといたします。