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数の魔力 ~Der Zahlen gigantische Schattern~

数字には魔力がある!

と言われたら、あなたはどう思いますか?

 

数字には、私たちが想像もできないような、たくさんの意味と意思がこめられています。

 

かの物理学者アインシュタインは、宇宙が世界で構築されていることを指摘しました。

 

ユダヤの神秘思想「カバラ数秘術」の共通認識においても、宇宙は数字で構築されているようです。

 

また日本古来の神からのお告げも、数字を介して降ろされています。

 

 

数の魔力 Der Zahlen gigantische Schattern

大いなる存在からのサインは、数字のかたちでやってくるのです。

 

書籍:数の魔力〜数秘術から量子論まで〜

数の魔力〜数秘術から量子論まで〜」という本をご紹介します。

 

私は長いこと、シュタイナーの著書や講義・講演録を読み漁っております。

しかし、その数は限りなく、読んでも読んでも終わりません。

しかも、一度読んだだけでは、なかなか分かりません。

 

したがって同じ書籍を、同じページを、同じ一文を繰り返し読むことになります。

読破への道は険しそうです。

 

さて…。

ここに「数の魔力」という本があります。

読みたくて入手したものの、ずっと積読になっていました。

 

ふと思いつき、パラパラと眺めてみますと…?

ん?

なんか、違う?

 

私が今まで読んだものと、まったく違う雰囲気。

 

あ!

それも、そのはず。

 

この本の著者は、ルドルフ・シュタイナーではなく、ルドルフ・タシュナーというお方でした。

なにやってるんだろ、私…と苦笑い。

 

オーストリア生まれ、数学と物理の専門家ルドルフ・タシュナー。

縁のない世界です…。

 

が、この本に出会ったということは、ちょっぴり縁があるかも。

 

カバーの紹介文には、

(以下、引用)

聖書の文言に、バッハの調べに、秘められた数の暗号。人の思考を助けるのが数なら、振り回すのもまた数だ。机上の数遊びは遙かな宇宙を思い描き、一方ではミクロな物質世界の実態をあばき出す。「数える」という営みによって築き上げられた人類の叡智と、叡智からこぼれ落ちた闇の深さを、ごく初歩の数式のみを用いてみごとに描き出した一冊。

(引用、以上)

と書かれています。

 

ごく初歩の数式すら分からない私には、やっぱり無理かしら?

 

いやいや、ちょこっと覗いてみよう。

面白そうなところだけ、つまみ食いしてみよう。

 

ということで、今日のつまみ食いは、【かけ算の魔法】です。

 

83×25を魔法で計算します。

STEP
83 25として魔法で計算のルール

83は、1になるまで半分に割り続ける

余りは切り捨て

25は、83が1になるまで2倍にする

STEP
ルール通りにすると

83  25
41  50
20  100
10  200
 5  400
 2  800
 1  1600

STEP
左右ともに偶数行を消す
83  25
41  50
20  100
10  200
 5  400
 2  800
 1  1600
STEP
残った右側の数字を足す
83  25
41  50
20  100
10  200
 5  400
 2  800
 1  1600
合計 2,075
STEP
答え合わせ
83×25=2,075

 

ほらねっ!

魔法!

 

お時間ありましたら、お好みの数字でお試しください。

 

この魔法で面白いところは、ある時代の、ある国の計算専門家たちが数字を「良い数字」と「悪い数字」に分けていたことなんですね。

 

偶数は「悪い数字」、奇数は「良い数字」。

 

偶数と偶数が重なると、悪いことが起きる。

だから消してしまえ!という手法らしいんですね。

 

何かを良い悪いで仕分けするのは、個人的に好みではありません。

が、『感覚的な捉え方と数式が噛み合う』という魔法は、好みです。

 

数学や物理に詳しい方が、この記事に出会わないことを心から願っております(笑)。

 

過剰数・不足数・完全数・友愛数

ルドルフ・タシュナー著「数の魔力」から、美味しいところのつまみ食い。

…の、つづきです。

 

数字の約数をみると、その数字の「質」を探求することができる。

これは、ピタゴラス学派の人々の考え方。

 

数字の「質」というのは、その数が「何を」示しているのか。

 

数字というのは、ものの数や距離や重量、などなど数を表す共通尺度である。

また、「何か」を示す質感を伴う概念でもある。

という感じですね。

 

その「何か」というのが、約数の中にあるらしいのです。

 

たとえば「12」。

「12」の約数は1/3/4/6/12で、その数自身(12)を除いた合計は14です。

14は、12より大きいのであふれ出す数「過剰数」と呼びます。

 

たとえば「10」。

「10」の約数は1/2/5/10で、その数自身(10)を除いた合計は8です。

8は、10より小さいので足りない数「不足数」と呼びます。

 

たとえば「28」。

「28」の約数は1/2/4/7/14/28で、その数自身(28)を除いた合計は28です。

完全に一致していますので、「完全数」と呼びます。

 

完全数は、「6」「28」、その次は「496,8128,33550336,858969056」。

その次が存在するのか、次の次があるのか。

奇数の完全数が存在するのか。

…というのは、未だ解明されていないようです。

 

そして、もうひとつ。

友愛数」というのがあります。

「220」と「284」は友愛数です。

 

お互いの約数(その数自信を除く)の合計が、相手の数と一致するのです。

220約数
1/2/4/5/10/11/20/22/44/55/110/220
220を除く合計284

284約数
1/2/4/71/142/284
284を除く合計220

 

ピタゴラスは、220と284が友愛関係にある魂を象徴する、つまり友愛数だと考えたのだそうです。

 

「220」と書いた紙片と「284」と書いた紙片を男女が食べることで、恋愛感情が高まる。

…と中世の数秘術家が主張した、という話も残っています。

 

突然ですが、思い出したことがふたつ。

遠い日に、息子と見たテレビ番組「ピタゴラスイッチ」。

そして小川洋子の「博士の愛した数式」。

 

666の真相(深層)

666という数字に、どんな印象をおもちでしょうか?

 

「6」に関する私の個人的な体験をお話しますと…。

雪の結晶を初めて顕微鏡で見たとき、その六角形の美しすぎる美しさに恐怖を感じた記憶があります。

 

あと星マークを描くときに、一筆書き五角形の人と二筆書き六芒星の人がいると知って驚いた。

 

それから最近、6が超レアな数字、完全数だと知りました。

 

※6の約数の和(除く6)はである。
1+2+3=6

 

さらに数霊・数秘的には、「6」は受け入れる・調和する数字らしい。

 

3つの6でミロク(弥勒)とか、エンジェルナンバーとか、日月神示では注意を促すとか。

 

タシュナーのコラムによりますと

①カトリック教会を敵視する人々の意図

カトリックの象徴である教皇の冠に書かれたラテン語、「神の息子の代理者」に隠された数字の合計は666である。

 

ゆえに、教皇を敵視する派の人々が「666」を悪魔数として宣伝した。

 

②ルーレットは悪魔の遊び

ルーレットのホイール(円盤)上の数字の合計は666。

 

ルーレット(ギャンブル)は人を悪魔に変えてしまうので。666は悪魔だとされた。

 

③どんなものでも666になる

ちょっとスキルを使えば、なんだって666に結び付けて解釈できる!とタシュナーは言うのです!!

 

ラテン語「w」は数字6を表します。

666はwww(world wide web)、つまりインターネットってことですね。

 

インターネットは世界をつなぐと同時に、世界を破壊する力にもなりえるでしょう。

どちらから見るか、どのように見るか。

一部は全部で、全部は一部。

 

ハニカム構造

ふと思い出したのは、山中湖にある知人のご実家で見た巨大なスズメバチの巣です。

 

一人では抱えられないほどの、大きくて、まん丸で、なんかカサカサした物体。

これを家のお守りとして、神棚に飾ってあるのでした。

子孫繫栄・商売繫盛のお守りだと聞きました。

 

ここで、ひとつ大事なのは蜂の巣が正六角形の集合、つまりハニカム構造だということです。

 

「6」は聖書の中で「異教徒」を表す、と言われています。

が、異教徒とは本来、別次元の存在、を意味します。

 

理解の及ばないもの、超越したものに対する畏怖の念を込めて「異教徒」と呼んだらしいのです。

 

ある古神道の家系では、六角形を神紋(神様のマーク)として大切にしています。

 

六芒星のデザインは、籠目(かごめ)にも通じる、謎多き六角形です。

土星の北極点には、六角形の印があるとか。

木星の南極点には、六角形の嵐が起きるとか。

生二十面体ウイルスを、平面で見ると六角形だとか。

トンボやハエなど複眼の、最小単位は六角形だとか。

 

あと、雪の結晶も六角形ですね。

 

宇宙には、たくさんの正六角形が存在するようです。

平面を、すき間なく埋める形は

正三角形
正方形
正六角形

のいずれかであり、他には存在しない

というのは、かの有名なピタゴラスさんの言葉です。

 

個々の六角は強度と衝撃緩和性に優れ、その集合によって更に力を増す。

個々の六角の内部は音を吸い込み、その集合によって音を増幅させる。

…という特別な作用をもっているのです。

 

私たち人間族の魂も、究極的には六角形で表すことができるそうです。

 

ということは!

私たち一人一人が、この素晴らしき六角形の集合体の一個になるわけ。

ハニカム構造を成す、一個の六角形としての私。

 

ただ整然と、粛々と、ここにいる、というのも、ひとつの美しき生き方なのかもしれません。


太陽と月と星

タシュナーは、

(以下、引用)

「時間の概念を頭の中で組み立て得るためには、変化と持続という両者を互いに関係づける必要がある。この関係を作り出すのはリズムであり、それは古代の思想家たちによって構想された永遠回帰のイメージに具現化されている。したがって、リズムとは何を意味しているのかをはっきりさせることによって、はじめて時間について何にか意味あることを語れるようになる。人類はその当初から、太陽、月、星の循環の中に、そうしたリズムを感知できると信じてきた。」

(引用、以上)

…と書いています。

 

私たちの時間感覚は、『太陽と月と星のリズム』という現象によって決定されます。

 

時間について、とても繊細に慎重に書いているところが私は、好きです。

時間の概念。

時間の感覚。

しかも、さりげなく「永遠回帰」という言葉が潜んでいます。

 

浅知恵ではありますが、ニーチェの永劫回帰…ですよね、多分。

時間は回帰し続ける、ってやつです。

始まりは終わりで、終わりは始まり。

 

時間は、やっぱり循環している!と私は思うのです、

 

天体現象(変化)とその永続性(持続)をつなぐリズム。

そのリズムは、、何を意味するのか?

 

分かったような、分からないような小難しい話なのですが。

分からないなりに、なぜかハートにジーンと沁みてくるのです。

 

太陽も月も星も、みんな星だ、と神やんが言っていました。

 

私たちも、星です。

太陽と月と星の間にある、リズムという不思議なものが、私(星)たちの時間感覚を
決定している。

 

太陽と月と星を眺め、太陽と月と星が奏でるリズムを共に感じること。

リズムを感じることが、時間という生き物と共に、いきいきと生きること。

…なんじゃないかしら?

 

なぜ時間は止められないのか

私たちは、日常の中で当然のように数を数えたり時間を確認したりしています。

 

しかし、一体どこに数というものが、あるいは時間というものが存在しているのでしょうか?

 

あなたは宇宙空間に、たとえば空や海の中に数字を見たことがありますか?

風や日差しに季節を感じるとき、時間というものを見たことがありますか?

 

数と時間は、どうやらあるにはありそうですが存在を見たことがありません。

 

住所表記や商店の値札、書籍やスマホの中に数の形象を見ていますが、それは数そのもの
…では、ありません。

 

時計を見ると、たしかに時間を表す数は見えますが、これもやはり時間そのもの…では、なさそうです。

 

私たちが思考するとき、あるいは意識を向けたとき、ヒュッと姿を現すのが数と時間なのです。

 

私たちは、意識によって数と時間をコントロールできそうな感じです。

なのに、どうして私たちは、「じ〜か〜んよ〜とまれ~」などと切実に願うのか?

 

その理由をタシュナーが解説してくれるのですが…。

何度読んでも私には、とんと理解できずにおります。

 

もしかしたら、こういうこと?というイメージを以下に書いてみます。

 

「数とは」「時間とは」という問いに対して人間は、意味のある答えを見つけられずにいるらしい。

 

ただ、そこに、あるだけ。

見えないけど。

 

その絶対的存在感は、宇宙とか神様に通じるもので、はっきりさせようとすればするほど無力感や喪失感にかられる。

 

無力と喪失を感じてジタバタするから、「じ〜か〜んよ〜とまれ~」と叫びたくなる。

…ってことかしら?

 

だとしたら、力を抜いて数と時間の魔力にすべて委ねてしまえば、時間は私たちに
優しくしてくれる。

…ってことじゃないかしら?

 

なぜ時間は止められないのか2

いくら数を数えても、数という存在は見えません。

今、何時?と確認しても、時間という存在には出会えないのです。

 

私たちが数を数えるとき、たとえば「7」で止めることはできます。

けれど「7」の次には、「8」が続くことを知っているわけです。

 

7時を1時間過ぎると8時がやってくるのを、止めることはできません。

 

一方で私たちは、いつでも「1」から数え始めよう、と決めることができます。

 

私たちの心の中には、『自由意思の力で何かを始めたい』という願望があり、この願望によって数を「1」から数えたくなるのです。

 

暦や時計の発見には、この「1」(始める)という強い願望が根源にあるようです。

 

たとえば、時計の目盛りが円形なのは、針が一周するたびに時間が新しく「1」から始まることを人間が熱望しているから。

 

暦が新しくなり新年を迎え「1」から始まるこの年が、より良い年であることを願うから。

 

ここでタシュナーは、この「1」への切望を「集団的幻想のあらわれ」…と表現しています。

 

集団的幻想かぁ…。

 

元旦に多くの人が、今年の目標を定めるような感覚ですかね。

「1」から始める。

「1」を決める。

 

数と時間は、ただ存在して私たちの願望にはとんと関心もみせず、容赦なく淡々と
進んでいくようです。

 

言語や習慣の違いを楽々と超越し、数と時間は存在します。

 

やはり数と時間は、予定調和なのでしょうか…。

※私の理解する「予定調和」とは:予め(あらかじめ)神様が定めた調(リズム)と和(ミックス)により宇宙・世界の秩序が整っているという考え方のこと。

 

時間は孤立しない

時間について…

(以下、引用)

瞬間を意識的にとらえようとすれば、この瞬間はそれ自体で孤立しているものではなく、過去の瞬間の連続の中から出現し、同時にけっして最後のものではないことはすぐわかる。

(中略)

時間はすべてのリズムの基礎の中に、すべての周期的事象がよって立つ土台の中に姿を現す。すなわち、数を数えるという行為の中に。

だからこそ時間は、宇宙に刻み込まれた、深く、人間的な概念なのだ。

(引用、以上、改行は引用者による)

瞬間の連続の中から瞬間は出現し、瞬間は孤立せず未来へと続く。

私たちが数を数えるとき、宇宙に刻み込まれた時間という概念を意識する。

…ということでしょうか。

 

私たちはイメージの中で、時間と空間を超えて旅することができます。

 

しかし現実界では、時間に囚われ、時間に身を委ね、粉々に砕けた瞬間だけを体験しているかのようです。

 

時間の経過に支配されがちな日常の中で、数を数えるという行為の中に、時間という宇宙の概念を意識できるのかもしれません。

 

つまり…時の鐘を数えるという体験が、時間の秘密を覗くことになる。

 

鐘の音がひとつ鳴り響き、後に残響と静寂を残します。

そして次の音が鳴り響き、また静かになる。

 

その響きと空白。

次が鳴るか鳴らぬかは、(時計を確認しないと)分からないのに。

次の音が鳴ることを期待し、未来に望みをかけ、数と時間が終わらぬことを静かに願う。

 

ちょっと哲学な気分です。

 

現在・過去・未来

時間の神秘について

(以下、引用)
時間ほど神秘的に感じられるものは他にない。
(中略)
未来はつかむことができず、現在は止めることができず、過去は呼び戻すことができない。われわれが死すべき存在であること、未来のことに責任を負っていること。不確かな明日のことに不安を感じること、絶好の機会をのがすかもしれないこと、二度と戻らぬ幸福の記憶が遠いこだまのように消え去っていくこと、これらすべてが、時のもつ不気味な力をわれわれに強く印象づける。
(引用、以上)

数学と物理の権威・ルドルフ・タシュナーは、ときどき文学青年のようにはかない言葉を綴ります。


私には理解できない、数学の解説の合間にほんのちょっぴりだけ上記引用のような文章が現れるのです。


...というか、そこしか読めないんです、私(笑)


時間については、そもそも「存在しない」という捉え方もできますし。
時空は超えられる、とか。
時間と空間は同じものだ、とか。
時間と空間はねじれている、とか。


あと、意識したときだけ出現する、と捉えることもできます。


時間と空間は「感覚」だと大雑把に捉えている私は、存在するか否かの議論にさほど関心がありません。


ねじれたり、波打ったり、消えたり現れたり...そりゃ、するでしょ、と思っているのです。


あと、タシュナーさんとお話する機会があったら
「未来はつかむことができず」、でも今とつながっているからつかんでいることになりませんか?


「現在は止めることができず」、でも止まったように感じるときは、止まっているのではありませんか?


「過去は呼び戻すことができない」、けど今の感覚によって上書き修正は、できますよね?
などと、お尋ねしたいところです。