私は神道・仏教・キリスト教その他、特定の宗教の信者ではありません。
でも、「神様はいる」と思っています。
神様というより、神様的な存在によって生かされている、という感覚です。
神様がいることも、いないことも証明できませんが、「神様はいる」と思っていた方がより自然に生きられるような気がします。
神様と宗教について
私なりの「神様」について、まとめてみました。
あなたは神を信じますか
「あ~なたは、かみを~、しん~じますか?」
↑
これね、カタコトの日本語っぽく読んでください(笑)。
私が、とても若くて未熟で(今も未熟ですけど)肩ひじ張って生きていた頃。
渋谷スクランブル交差点を渡りきるまでに、少なくとも1人、多いときには3人。
上記「あ~なたは」の方から、声をかけられたものです。
自称、神の使いの方々です。
「私は、私だけを信じてるんだよ!」
「他人のあんたなんか、信じないよ!」
「あんたの神様、信じるわけないだろ!」
…と心の中でつぶやきながら、シカとして(これも懐かしい言葉)立ち去るのが常でした。
あの方々は今も、街頭での布教活動を続けているかしら?
なんか、懐かしいなぁ。
ところで、あなたはいかがですか?
あなたは神を、信じますか?
私はですねぇ、信じて…はいないような気がします。
『信じる』というのは、『信じない』の反対側にあるものです。
信じようと努力している、がんばって信じる…という感じですね。
私はを、信じますか?
そうですねぇ…。
私の場合、日常的に神的存在から連絡事項を受け取ったり、おちょくられたりしてますから。
信じるとか、信じないとか、そういう感覚がないかも…。
たとえば、あなたは、太陽を信じますか?
信じるも信じないも、ないですよね?
太陽は、見えますからね。
明日、太陽は昇るのか?太陽を信じていいのか?…って、誰も思わないですよね。
私にとっての神は、太陽と同じ感覚なのです。
『信じる』というより『知っている』とか『体験している』の方がピッタリくるのです。
それって、気のせいですよ!
やる気、本気、根気、元気、景気、勝気、狂気、乱気、湿気、換気、一気、雰囲気。
…いろんな気がありますね。
気が荒い、気が立つ、気がせく、気が利く、気配り、気詰まり、気づき、気が気じゃない、気分転換、気晴らし、気がかり、気丈、気分、気休め、気まま、気軽、気心、気鬱、気合い、気後れ。
…いくらでも出てきます。
この世は、気で満ちています。
そして私たちは日々、いろんなことが気になりますね。
気になるって大事なこと。
気になることは、ぜ〜んぶ「気のせい」です。
「気のせい」というのは、思い過ごしや勘違いではなくありません。
気のおかげで気づくこと。
発音(抑揚)を変えてみてください。
気(↓)の(↑)せい…ではなく。
気(↑)の(↓)せい…なんです。
木の精、と同じ発音です。
「mood」や「feeling」ではなく「spirit」なのです。
ちょっと気になることがあったら、それは全て気(↑)の(↓)せい、気のおかげです。
気からの大切なお知らせを、粗略に扱ってはなりません。
神様からのメッセージでもあるからです。
気になることがあったら、ちゃん~んと気にして気を配ってください。
クヨクヨ気にしていると気鬱になりますが、ニコニコしながら気にすれば、きっと元気になります。
神様の子ども、神の子池
ある朝、夢に水たまりが現れハッとして目覚めました。
なぜハッとしたかというと、その水があまりにも美しかったからです。
美しすぎて、もう本当にびっくりしてしまったのです。
その美しさをなんとか言葉に表そうとしたのですが、なかなか見つかりません。
ふと思いついて、あの美しさにふさわしい湖の写真を探してみました。
そして「神の子池」に出会いました。
地下で摩周湖とつながっているという、小さな湖です。
摩周湖の別称が「神の湖」で、その子が「神の子」で、「神の子池」となります。
あの夢に出てきた水たまりが神の子池の写真とあまりによく似ていて、また驚きました。
「神の子」=「イエス・キリスト」?
なんか、ちょっと違う。
私の感覚では、すべての人が「神の子」なんです。
つまり、あなたも、私も、神の子だってこと。
色々とダメなところがあっても神の子だからね、なんか、このままで大丈夫な気がします。
神様の子ども、その2
私たち人間族は、みんな神様の子孫なんじゃない?
…と、思っています。
キリスト教の宣教師…みたいですね(笑)
10年前の自分ならば「けっ!」とあざ笑うだろうな。
今でも、実はちょっと照れくさいのですが、神様の話を続けます。
私たちのハートは、神様の小さな粒なのかもしれません。
粒は、神様の一部だから悲しいときには、きっと粒も悲しむ。
粒の悲しみを、私たちは「胸の痛み」として感じる。
嬉しいときに胸がホカホカ温かくなったり、ワクワク・ドキドキするのは、神様の粒が踊っているから。
↑↑↑
ちょっと乙女チックになりすぎたので、調子を変えてみます。
↓↓↓
胸が、あーなったりこーなったりするときは、何か大きなものとつながっている瞬間なのかもね、と感じるんです。
大きな存在の欠片の、ものすごく小さな粒々が、ひとりひとりに埋め込まれていて。
善意とか誠意とか真心とか、そういうものの核として機能しているんじゃないかな?
この粒々を寄せ集めたら、小さなお団子くらいになって。
それから雪だるま式に、グルグル回転しながらどんどん大きくなって。
なんか、すっごいことに、なるんじゃないかな?
…ってなことを妄想するのが、私の神への祈りなのです。
0点満点!
100点満点!
なかなか良い響きです。
0点は、どうでしょう?
なんとなく、ダメな感じ?
数学者たちにとって「0(ゼロ)」は、夢のように素晴らしい発明でした。
インドの数学者が、「無」を表現する数字を作ろう!と言い出したのが「ゼロ」の始まりです。
「ゼロ」を使うことで、大きな数字の表記が格段に楽になったのです。
たとえば「102030405」という数字は、もし0がなかったら「1億+2百万+3万+4百+5」と表すことになりますね。
もちろん「億」とか「百万」とかは、国によって記号が変わります。
「1億+2百3万+4百5」とは表せないのです。
203万とか、405には、ゼロが必要です。
ゼロは、数学界において、すごい仕事をしているようです。
ところで、あなたは、日常生活の中でゼロを意識することがありますか?
一から始めるのが好きでも、ゼロにするのは苦手な人が多いですね。
なかったことにする。
チャラにする。
何も考えない。
何もしない。
手放す。
無になる。
…こういうの、なかなか、できません。
できないけど、せめて今日だけは「ゼロ」さんに思いをはせてみましょうか。
ゼロ、ありがたい。
ゼロ点は、満点です。
神社の紙
神社にお参りすると、ギザギザの紙を見かけますね。
注連縄(しめなわ)や玉串(たまぐし)榊(さかき)に挟み込まれた、白い七夕飾りみたいな…あれです。
紙垂(しで)といいます。
もともとは木の皮を叩き柔らかくして薄く割いたのだそうですが、今は紙(半紙)ですね。
あのギザギザというか、ジグザグの紙垂は、雷様(稲光)の形です。
雷(かみなり)は、神鳴り(かみの声)で神形り(かみの姿)でもあり。
稲妻も稲光も大昔は、稲魂(いなたま)でした。
大和の民を養う稲の恵みを、天から輝き落ちる光の中に見たのかもしれません。
雷がたくさん現れると、稲がたくさん実りお米をたくさんいただけますからね。
雷も稲妻も稲光も、神様の声と姿…というわけです。
神様の声と姿を表すあの紙垂(しで)には、聖なる場所を清め、邪悪なものを鎮め、聖邪を融合する力があるといいます。
(巷では、『邪悪なるものを追い払う』と言われているようです。
しかし個人的には、あの裏表裏表の連なりには聖も邪も飲み込む力があるように思います…)
ともかく雷の中にも、あのビラビラした紙の中にも、そして私たちの中にも、神様の姿や声が潜んでいます。
神様は、あなたの身近にいますからね。
今日も安心して、穏やかに過ごしましょう。
暗闇の力
夢は、潜在意識からのメッセージです。
夢をみているときは、神様とつながっているのです。
ある明け方、私は、こんな夢をみました。
懐中電灯を手に、森の中を歩いていました。
見えないけれど隣には、私の守護神らしき存在がいて、さほど怖くなかった。
けど、ちょっと怖かった。
懐中電灯の明かりが、先の見えない道路を楕円形に照らします。
明かりの先は、暗闇に吸い込まれるように消えてしまうので、その消える感じがちょっと怖い。
そこで私は、懐中電灯を消してみた。
すると一瞬、怖い!と感じたけれど、そのあと恐怖は消えました。
夢から覚めた後も夢の暗闇を感じて、その闇は生き物のような、水圧のような、また嵐のようなものでもありました。
深い暗闇は、はっきりとした圧力と身動きを封じる力があります。
しかし一方、でっかい愛に包まれているような感覚もある。
暗闇に身を委ねてしまえば、何も恐れることはありません。
暗闇は、光が凝縮したもので、光は、暗闇の結晶ですからね。
暗闇が深ければ深いほど、たとえば、ホタルの小さな光も美しさを増します。
夢の中の私は、隣にいる見えない神的な存在をしっかり感じていました。
深い暗闇の中では、見えない存在を強く濃くクリアに感じられるようです。
人生の暗闇は、神とのつながりを味わうために与えられているのかもしれません。
字余りも良し、字足らずも、また良し
あなたは、「31」という数字から、どんなイメージがわくでしょうか?
月末とか年末?
奇数?
風水の吉数?
エンジェルナンバー?
先日、古神道の師匠から聴いた、和歌の話をします。
31には「非の打ち所がない」という意味がある。
和歌は、五+七+五+七+七で、計31文字。
この完全なる文字数が、全てを包括している。
31文字には、重要な意味があるが、必ずしも31にならなくて良い。
字余りも字足らずも全て受け入れるのが、大和言葉のこころである。
情感と感情と曖昧さを、全て掬いとるのが和歌である。
...というお話でした。
「31文字であること」と「31文字でないこと」は、どっちも大切なんだね。
…と、感じた私です。
曖昧さが、曖昧であればあるほど言葉は、豊かに広がり、さざめき、人の心を揺り動かすような気がします。
ロックンロールに隠された、秘密の言葉と同じように。
小唄・端唄に、内緒の決めごとがあるように。
表に出さない言葉には、強いエネルギーが秘められている。
ぼちぼち・まぁまぁ・てぇげぇ…などは曖昧表現の代表格ですよね。
また擬音・擬態語にも、漢字では表せない、特別な曖昧さがあります。
動物たちの発する声。
心が訴えること。
魂の叫び。
歓喜の表現
「うぉー」とか「キャー」とか「うふふ」なども好きです。
白黒はっきりさせる時代は、もう、おしまいです。
曖昧さこそが、偉大なエネルギー。
余白、余裕、余分。
ゆとり、ゆらぎ、ゆがみ。
…なども実は、曖昧さを表す言葉です。
大和言葉(日本語)で話し、思考する私たち。
日本語を使うことで、日常的に大和古代の神々と繋がっているのです。
今日も安心してお過ごしください。