終わることなき、人間関係と心の悩み。
ひとつ落ち着いたと思ったら、はぁ…、やっぱり次がくる。
悩みがあるから、成長できるとか、生きている証だとか。
そりゃ、そうなんだろうけど…。
今、しんどいんだよね…。
という人へ、ちょっと心が軽くなりそうな、ミニ・エッセイです。
過去の失敗や後悔と、時間という可能性
過去の失敗や後悔を、繰り返し思い出す。
大切な存在を失った悲しみが、いつまでも心を暗くする。
力を奪われ、これ以上もう一歩も進めない。
何度も味わい、やり過ごしたはずの苦しみが、また、またまた、やってくる。
なんでだよ!と思いますね。
望まないかたちで、試練は目の前に現れる。
いい加減にしてくれよ!と抗いたくなりますね。
もう逃げ出したい。
諦めた方が、よっぽど楽だろう。
ここまで我慢したんだから、もう誰も責めないよ。
そうそう、その通り。
逃げるもよし、投げ捨てるもよし、忘れたふりして楽しむもよし。
それでも粘って、じわじわとカタツムリみたいに進んで、ときどき休んで、気分を変えたりして。
そのうち勝手に時間が流れて、なぜか、少しだけ明るく、風通しのいいところに出ることもありますね。
この空間を抜けていく風に、時間が与えてくれる可能性を感じます。
生き物たちはみんな、時間という可能性の中で、支え合ったり通じ合ったりしながら、なんとか生きているような気がします。
睨まれたときのお作法
「ガンたれやがって!」
「なに、メンチ切っとんじゃ、オラッ!」
…なんて言葉、ありましたねぇ。
ところで、人に睨まれるというのは、あまり気持ちの良いものではありません。
ついつい、睨み返したくなったりしますが、たいていは曖昧に視線をそらし、やり過ごすことになります。睨んだ人を刺激して、もっと不愉快なことになったら、大変ですものね。
他人を睨みつける人というのは、ほぼ臆病であり、臆病であると知られたくないのです。
あら、可愛いわね!
よしよし、大丈夫よ!
睨まれておいてあげるわ!
と、大らかに受け流してあげてください。
心の中で、笑い飛ばしてしまいましょう。
パッ!パッ!と、サッ!サッ!と、お祓いみたいなものです。
あまり露骨に表すと、相手が不安になり、攻撃をしかけてくるかもしれません。
なので、表情は曖昧にしておいて、腹の中で笑うのがおススメです。
パートナーとの微妙な相性
お相手の候補となる人が、どんなに優しく、世間の評判が良くて、姿形も素晴らしく、社会的条件に恵まれていたとしても…。
その人と、自分の未来を、一つの箱に入れてみたとき。何となく楽しいと感じられないなら、その感じを信頼して離れた方が良い、と私は思います。
恋愛や結婚に限らず、あらゆる人間関係において、重要な判断基準だと思います。
・ある一時、ある状況では、そばにいてほしい(条件つき)。
・嫌われるよりは、好意をもたれたい(欲張り)。
・一緒にいると、羨ましがられる(見栄えと体裁)。
こういうのは「損得勘定」といって、良好なパートナーシップとは関係ありません。
自分以外の人が、どう感じるか、という視点も、排除してよいものです。
自分の本心を、無理に押し込めたり、説得しようとしても、いずれ綻びます。
「相性」というのが、ありますからね。
何となく感じられる、生命の響き。
自然の恵み。
それぞれに生まれ落ち、出会い、共に生き、それぞれに死を迎える。
ほんの一瞬だけれど、「共に生きる」ことを望むのが「相性」というものです。
思考は「好条件」を認識しているのに、どうしても感情が「これだ!」と動かないのなら、それはもう、「相性」がよろしくないのです。
あなたは相手の本質を見ないようにしている。
相手も、あなたの本質に気づかない。
そんな関係を続けても、互いのズレが、互いを傷つけるだけです。
人と人の相性、組み合わせというのは、本当に繊細で微妙なもの。
「何となく」「もう少しだけ」「一緒にいたい」という感じ。
「理由は分からないし」「言葉にできないけど」「なんだか幸せ」という感じ。
ちゃんと言葉にできない感情が、「相性」の決め手になるのです。
植物の連携プレー
うちのゴムの木は、年上の友人ご夫婦から、分けてもらったものです。建築家である旦那さんの設計による、めったやたらとお洒落な家でノビノビ育ったゴムの親木は、ヤモリの夫婦が住みつくほどの大きさです。
「さすがに少し切らないと、僕らの居場所がなくなる」と笑いながら、旦那さんはゴムの木を優しく包んでくれました。
うちでは、そんなに大きくなってもらうと(私が)困るので、「わが家へ、ようこそ。これから、よろしくね。仲良くやっていきましょう。あの、ひとつお願いなんだけど、ゆっくり小さめに育ってね」と、挨拶しておきました。
どうやら理解してくれたらしく、ゆっくり育ち、とてもゴムとは思えない、小さくて可愛らしい葉っぱを出してくれます。
さて、同じ種族の植物たちが、連絡を取り合っているのをご存知ですか?
私たちには見えない通信手段をもって、ひとつに繋がっているのです。
桜は桜族の全体と、杉は杉族と、タンポポはタンポポ族と、繋がっています。
だから、もし、あなたのお家の植物が弱ったときは、見ず知らずの土地にある、同じ種族に助けを求めたりしています。
万が一、枯れてしまったとしても、種族全体は健在ですから、あまり悲しみすぎないでください。
その枯れた植物は、どこかに生きている同族と繋がって、ちゃんと生きています。
うちのゴムの木は小さいけれど、大きな親木と繋がっているから、機嫌が良さそうです。
私たち人間族も、同じように繋がっています。
人間族の全体として、見えない力で通じ合って、お互いを支え合っています。
大切な誰かを亡くした悲しみも、自分の痛みや苦しみも、全部、繋がっている。
大きな全体の中で、自分が生かされているのは、本当にありがたいことです。
また、自分の生き方、心のもち方が、人間族全体に影響している、という責任も負っているわけです。
もう、同じことばかり書いておりますが、とにかく、ご機嫌でいましょう。
それが、生きている人間の、最重要任務ですから。
生き物と暮らす
植物たちとも会話する私ですが、こちらが植物レベルに落ち着いていないと通じにくい。ちょっとでも雑な感じで接すると、相手にしてもらえません。無視される(笑)
その点、動物たちは動きがあるので、植物よりは通じ合う可能性が高いんですね。
石と会話する友人は、私より遥かに繊細なのだと思います。
いずれにしても、人間以外との暮らしは、豊かで静か。
言葉をもたない存在と、言葉以外の言葉を交わす。
言葉にならない会話、その丁寧な感じは、見えないものたちとの会話を連想させてくれます。
動物と会話することが、見えない存在に近づく、ひとつの道であるような気がします。
若い頃は恐ろしかった蜘蛛族とも、仲良くやっています。
毒をもつ蜘蛛だって、ある種の人間たちより、ずっと優しい。
本棚に常駐している、ハエトリグモちゃんを「ラッコ」と呼ぶことにしました。いい名前でしょ。「おはよう」と声をかけると、ちゃんと手を振って挨拶してくれます。
自分を責めない
嫉妬とか恨みとか、意味不明の嫌悪感など、美しくない感情が誰の心の中にもあります。
私などは、たくさんの美しくない感情と共に生きております。
しかしながら、私は自分を責めておりません。
美しくない感情は、理由があって、当然に存在しているものだからです。
「こんなことを考えてしまう私って、なんてひどい人間なのかしら!」と悩んでいる人も、たくさんいらっしゃいます。
その人たちは、自分の悪い感情が、自分の悪さだと思っているんですね。
自分が悪いから、こんな悪いことを考える。
ゆえに、私は悪い人間だ、と自分を責めているわけです。
はっきり申し上げて、これは勘違いです。
もっと言ってしまえば、慢心なのです。
自分は自分によって生きておらず、自分の考えは自分のものではありません。
たとえば「人の幸せを心から喜べない」という感情があるとします。
この感情の前提には、まず「人の幸せを心から喜べないのは、悪いことだ」という思い込みがあるんですね。
さらに「うちの子は、人の幸せを心から喜べる、素直で素晴らしい子だ」という親の願望による刷り込みがあります。
追い打ちをかけるように、学校の先生が「みなさん、お友だちが喜んでいるときは、みんな一緒に喜びましょう」みたいなことを、柔らかな心と頭にねじ込んでくる。
大人になったらなったで、無欲で他人に尽くす人は「いい人」だと、みんなが言う。
みんな、って誰?
ニュースでも言ってるし、SNSもそうだし、本にも書いてある。
世の中は「いい人」だけを、「いい人」として扱う。
とにかくですね、自分の感情は、自分だけのものではないのです。
自分の感情というのは、自分の中だけにあるのではなく、自分の周囲にある意図や意思の一部が、自分の中に浸食してきた結果です。
外側と内側は、繋がっているんですから。
全体のムードや状況が良くない状況であれば、その一部である私たちも、当然のこと、良くない感情に支配されやすいものです。
私たちを取り巻く環境は、常に雑音や廃棄物を生み出していますから、そのホコリや垢が溜まるのも、日常なのです。
影響されるのは、当ったり前なのです。
自分だけを悪者にして、自分を責めるのは、もうやめにしましょう。
そんなことより、自分の中に、ほんのちょっぴりでもある美しい感情を、応援してあげてください。
すると、みんなに溜まったホコリが払われ、垢が流れていきますよ。