言霊の力~KOTODAMA POWER~

人生を豊かにするコトダマ鑑定&出版サポート

人間関係と心の悩み・ミニ・エッセイ集23

 

 

やりたくないなら、やらない

今日もイヤだなぁ。

仕事も家事も、ランチ会もショッピングも、ぜんぶイヤだ。

あれもこれも、今日もやらなくちゃならないけど。ほんとにイヤだなぁ。

こんな気分になること、ありますよね。

ここで「イヤ」という音の、言霊・数霊のメッセージを見てみましょう。

「情報やエネルギーを受け取り過ぎ→ブンブン振り回され→動かされ過ぎて動けなくなっている状態」のようです。

「やらなくてはならないこと」が多すぎてパニックになり、何もできない状態という感じですね。

こうなったら、もう「やらない」のが一番です。

「やらなくてはならない」のに、イヤでたまらないなら、「やらない」と決めることです。

イヤな気分で無理しても、もっと面倒な「やらなくてはならない」ことを増やすだけ。

イイことなんてありません。

ちなみに「イイ」の音は、思いやり・真心などを感じさせるエネルギーです。

本当に今、こんなにイヤな気持ちで、そのことを「やらなくてはならない」のですか?

ヘトヘトになっているあなたに、お休みをあげてもイイんじゃない?

 

人間関係は改善しなくていい

人間関係の改善は、大事なことです。

と言われていますが、別に改善しなくてもいいと思ったりします。

信頼しあっていれば、すれ違いがあったり、険悪になったとしても、人間関係は壊れないから、改善する必要がありません。

信頼できない相手なら、人間関係そのものが必要ないので、改善の必要もなし。

どんな相手にも失礼な態度をとらないように気をつけていれば、それで十分だということです。

というわけで、他人との人間関係は成り行きにまかせましょう。

大事にするのは、自分という人間との関係です。

自分との関係を改善したければ、自分を信頼してください。

ダメなところだらけの自分を、「でも大丈夫」と励ましてあげてください。

自分を自分で励ましながら、なんとか今日も生き延びている私です。

 

神は存在するのか

気分というか、思いつきで神について書いてみます。

あなたは、神を信じますか?

私は神の存在を「信じて」いませんが、神の存在を知っています。

なぜって神やんが、いつも近くにいるからです。

信じるとか、信じないとか、そういうことじゃないから。

たとえば、何かズルしたりサボりたくなったとき。

神が存在しなければ、私なんかは、すぐにズルしてサボります。

神の存在を知っているから、どうにかこうにズルやサボりを少々控えるわけです。

気乗りしない仕事もありますが、神が与えた天職ですからね。

ズルしたり、サボったりして胸がチクッと痛むのは、神とつながっている証だと思っています。

背伸びはしないけれど、私にできることを、私にできるやり方で、私なりにやってみます。

誰も見てくれないし、誰も褒めてくれないけど、どうやら神には見えているようなので。

とにかく、神は存在すると思った方が、なんとなく楽しく生きられるように思うのです。

 

知る・信じる

私たちの心は、「知っていること」と「知らないこと」との間で揺れています。

また、私たちの心は「信じていること」と「信じていないこと」との間でも振り回されてもいるようです。

心は、「理解したつもりになれる物語」という安心感を求めているのかもしれません。

知っているから、信じる。これは理屈。

よく知らないけど、信じる。これは盲信。

知っているのに、信じない。これは被害妄想。

知らないから、信じない。これは恐怖。

という感じがします。

哲学業界では、きちんと説明されているのでしょうが。

個人的には「知る」も「信じる」も、「感情」だよね、と思っています。

知りたいという気持ちが動いて、「知ること」「知らないこと」にたどりつく。

知りたくないという気持ちの先にも、やっぱり「知ること」「知らないこと」があります。

「信じる」「信じない」についても、同じようなことが起きているような気がする。

興味・関心があって、好きな感じを抱いていれば「信じる」。

イヤな感じがするものは「信じない」。

ということで、いいのかなぁ、と思います。

 

分かってくれない

あの人は、私の苦しみを分かってくれない。

この人も、私の悲しみを分かってくれない。

誰一人、私のことを分かってくれない。

…と、もし、あなたが感じているとしたら。

今日の神やんからのメッセージが、役に立つかもしれません。

「分かる人には、分かる。

分からない人には、分からない。

分からない人に、分かってもらおうとするのは

分からない人への拷問であり

同時に自分に対する拷問でもある。」

あー、あるある。

分からない人に、分かってほしいと願ってしまうこと、あるある。

分かってほしい、と願望のように見せかけて、実は「分かれよ!」と強要しているのかもしれない。

みんなから好かれる人は、いない。

みんなから分かってもらえる人も、いない。

そんな当たり前のことを忘れ、たまたま目の前にいる人に、「私を好きになれ!」「私を理解せよ!」と願うなんて、とんでもないことなのかもしれません。

その人の、そこだけを見て、相手にダメ出しするのは、どうなのかしら?

その人の、それ以外の部分を見たら、分かり合えることもあるだろうし。

その人とは、そもそも分かり合える点がまったくないので、分かり合おうとすること自体が、相手と自分に対する拷問なのかもしれません。

 

aipub1.com

aipub1.com