人間関係の悩み、誰にも言えない秘密の悩み、誰かに聴いてもらいたい悩み。
いろんな悩みが、ちょっぴり楽になりそうなミニ・エッセイを集めました。
嫌いな人・苦手な人への対処法
どうも苦手な人って、やっぱり、いますよね。
その人と関わると、嫌悪感・怒り・不満などイヤな気持ちになります。
たしかに、この不快感には、相手が影響しています。
その不快感は、あなたを傷つけ、さらに、こんな感情を抱く私ってダメな人、などと
追い打ちをかけたりします。
負の感情が湧き上がるのは、ごく自然なことなので無理に抑え込まないことです。
どんな感情も自然に、のびのびとさせてあげましょう。
その次に。
その相手と自分の関係を強く結びつけないように、ちょっと工夫します。
負の感情を自分の中に置いたまま、相手に対して感情を送らないように調整していくのです。
相手に対して抱く負の感情は、負の電波として相手に送信されてしまいます。
電波ですから、静電気みたいに触れ合わなくても相手との間に対流が起きるんですね。
つまり、関係が深まるわけで相手の電波に取り込まれます。
こちらが積極的に相手との縁をつなごうとがんばっている状態です。
では、どうするか?
相手に対して「怒り」を感じているときは、「私は怒っている」と自分に言ってあげてください。
これだけで、相手のエネルギーとの交流を絶つことができます。
「私は△△さんに怒っている」となると、△△さんに繋がってしまいますからね。
相手への感情ではなく、自分の中にある感情として意識すると静電気みたいなビリビリ感は小さくなります。
小さくなって、やがて消えちゃいます。
人づきあいが苦手
家族・職場・学校・近所・オンラインコミュニティ…。
人と関わることは、喜びでもあり、苦しみにもなります。
人と関わるのが、もともと苦手という人もいます。
私は…といえば、かなり苦手です。
複数の人と過ごすと、すぐに苦しくなっていつも逃げ出すタイミングを探しているのです。
そんな私だからこそ、人と関わるのが苦手な人たちに伝えたいことがあります。
誰かに相談することや頼ったり甘えることに、トライしてほしいのです。
誰にも言えないこと、言いたくないことがきっとあるでしょう。
でも世の中には、ちゃんと受け止める専門家たちがいます。
探してみてください。
試してみてください。
時間を増やす方法
時間がない、時間が足りない、時間に追われる…。
常に私たちは、「求める時間の量や長さよりも、体験する時間の方が少ない」と感じながら生きているようです。
時間を増やすことができたら、心に余裕が生まれるかもしれません。
そもそも時間は感覚なので、時間に対する余裕というのも感覚なわけですね。
では、どうしたら、時間に対する余裕を手に入れることができるのか?
それは「今、目の前にあること」「今、大切だと感じること」に集中することです。
義務感や責任感、ねばならぬ感は横に置きます。
今の自分にとって一番大切なこと、つまり一番やりたいこと。
その、ひとつのことに集中すれば時間という空間は、グワーッと広がります。
そして心も魂も、広やかに穏やかになります。
この、ひとつのことを後回しにすると、それが気になって気になってたまりません。
その気がかりが、「時間が足りない」と感じさせるのです。
時間の中にいることは、自然の道理や摂理の一部ですからね。
時間を大切に思うことが、時間に優しくしてもらうコツだと思うのです。
集中度が高まると、時間は拡大し奥行きを増します。
もし「時間がない」と感じているなら、あなたの気がかりが、あなたの時間を失わせているのかもしれません。
箱庭療法の非科学的根拠
箱庭療法というのは、イギリスで始まった子ども向け心理療法でした。
その後、大人向けに発展し日本に持ち込んだのは、あの、河合隼雄氏。
感情を言葉にするのは、子どもでも大人でも同じように大変なことですね。
言葉を使わずに表現する手法として、アートセラピーや箱庭療法が生まれました。
テーブルサイズの小さな砂場に、ミニサイズの人や動物植物、建物や道具を配置します。
何を
どこに
どのように
何を
置くのか
…ここに、感情が現れる、というわけです。
「ちゃんと言葉にしなくちゃ!」というストレスなしに、今の気持ちを表しやすく、解放しやすい。
心のありようが「もの」や「位置」、「触れ方」などに投影される。
「もの」のありように、メッセージをこめる。
…というような感じです。
私は、砂場遊びが大っ嫌いな子どもでした。
もし箱庭療法を受ける機会があったら大人が喜ぶような、あるいは驚きそうな箱庭をつくったでしょう。
実に感じ悪い子どもです。
ある日、師匠の師匠、Y先生の言葉が突然、嵐のように蘇りました。
「箱庭療法の不思議さは、現代の『科学的医学』や『科学的心理学』にとって、脅威であり挑戦だ」
「『科学的』というのは、ひとつの偏見であり、見方・見え方を制限する」
「そこにある『意味』、そこに現れる『意味』に敬虔な態度を保ちなさい」
というようなこと…。
ヨレヨレになったメモから発掘したので、正確な言葉ではありません。
が、なんか、すっごく「うん、うん、うん!」と思った記憶が蘇ります。
そして今、また「うん、うん、うん!」と思うのです。
アートセラピーと図工が苦手だった私
心理学の大師匠(師匠の師匠)であり、アートセラピーの先駆者Y先生のことです。
アートセラピーというのは、絵画・造形・演奏・舞踊など、あらゆる芸術表現によって心の健康を目指すことです。
病気や障害の改善、ストレス・感情のコントロール、自己理解などに役立ちます。
アートセラピーのひとつに、なぐり描き法というのがあります。
何も考えずに線を書いて、そこに見えるものを探し、見つけたものに色をつける。
セラピーを受ける人だけがペンをもつ方法もありますし、セラピストと交互に線を描いたり色をつける場合もあります。
あらゆる芸術表現の中で線画や描画というのは、かなりハードルが低いものです。
言葉以外のコミュニケーションというのは、より動物的なものです。
ピュアな感じで、本当の自分に気づけるのかもしれません。
セラピストの前で踊ったり歌ったりするのは、抵抗があるかもしれません。
けれど、線をなぐり書きするだけなら「とりあえず、やってみるか」となる可能性が高い。
特に「言葉」が苦手な人は、「描く」のが得意な可能性が高い。
口にした言葉は消せませんが、表現したものを視覚で確認できるので保存するなり破棄するなり自分で選べますしね。
私の場合、幼い頃にアートセラピー(もどき)を受け、偏った解釈をされた苦い経験があるのです。
大人になってからは「技法」という言葉に抵抗感があり…。
さらに、絵が下手、という思い込みがあり…。
アートセラピーの講義は、はっきり申し上げて、超!退屈でした。
そんなんで、心が解放されるわけないじゃん!
と、思っていました。
が!
Y先生の交互なぐり描き物語統合法というのは、好きでしたね。
一枚の画用紙をセラピーを受ける人とセラピストとが一緒に使います。
まずセラピストが、漫画のコマ割りみたいに画用紙を区切ります。
交替でなぐり描きして、出来上がった絵をもとに物語をつくります。
絵は二人の会話です。
キャッチボールです。
そこには、映像と感情の交流があります。
分断された記憶や意識、表現できずに溜まった感情、気づきたくない怒りや哀しみ。
それらを紡ぎ、縫い合わせる…統合する効果がある、というわけです。
これも、ひとつの技法なので合う合わないがある。
また、セラピストの技量によっては、効果が減少するどころか状況を悪化させる場合もある。
どんな技法も、万能ではありません。
が、アートが苦手な私には、描いた後に物語を紡ぐというプロセスが親しみやすかった。
あなたにピッタリのセラピーが、見つかりますように。
怒鳴り声と泣き声
家の近くにある駐車場から男性の怒鳴り声が聞こえ、目覚めると深夜でした。
喧嘩かな?
眠りに戻ろうとすると、今度は幼児の泣き声。
どうとも説明できない息苦しいような声は、いつまでも続きました。
やがて車の扉を閉めたのか、バタンと大きな響きがあって…それっきり。
この感じ…。
なんだろう…。
何かが弾けて、もう悲しくて悲しくて、たまりませんでした。
何かを思い出しそうで、でも何も掴めないまま眠ってしまいました。
夢の中でハイヤーセルフ神やんは、ただ私を正面から見つめ何も言わずに頷いていた。
「よし、よし」と、背中を叩いてくれているような。
「わかる、わかる」と、受け止めてくれているような。
慈悲深い、神様のようでした。
現実界で耳にした泣き声と怒鳴り声は、夢の中でも響き続き、神やんがその音を撫でてくれているようでした。
最近、神やんのキャラがどんどん変化し、自著「神やん」シリーズの登場人物としては、面白みに欠けるような気がしています。
あのヤンキーな神やんは、もういないのか?
昨夜の赤ちゃんは、今どうしているだろう?
あの怒鳴り声の人は、どんな哀しみを抱えているのか?
気持ちが散らかったまま、なかなか落ち着かないのです。
買い物依存症
「神やん第2巻」に登場した夏子さんは、デキる看護師さんで買い物依存症でした。
職場のトラブルを片っ端からやっつけて、みんなから頼りにされている。
夜勤が明けて家に帰ると、ネットで買い物をしまくる。
クローゼットには、タグも切っていない衣類がいくつもあって廊下には開封していない段ボールが山積み。
それでも「何か」をポチっとしないと、眠れないのです。
夏子さんの中には大きな穴があって、その穴は決して買い物では埋まらない。
そんなこと分かっているのに、ポチっをやめられない。
「もの」ではない「何か」を強く求めているのに、その「何か」が何であるかが分からないから。
買い物の先に、あるいは買い物の根底に、きっと欲しいものが隠れているはずです。
依存は、あっていい。
誰だって何かに依存している。
でも、依存の先に、あるいは根底に求めるものがある。
…と知っていれば、依存したままでも大丈夫…と、私は思っているのです。
音声配信でも、このテーマについて話しています。
想像力は創造力
「そう!」…という音が気になったので、イメージしたことを書いてみます。
そう…かぁ…。
草
早
走
窓
相
争
そう…ねぇ…。
とグルグルしていたら、O先生の言葉が蘇ってきました。
境界性人格障害のカウンセリングに関するお話です。
境界性人格障害(境界性パーソナリティ障害)(ボーダーラインパーソナリティ症)というのは…
幼少期の家庭環境や生活習慣、先天的な問題・遺伝的要因などにより、不安を抱えやすく…
いつも虚しい感じがあり、激しい怒りを抱えたり、自分を傷つけたり…
精神的に脆く、集団生活になじめず、感情がコロコロ変化するし…
見捨てられることへの恐怖があるために、見捨てられないように振る舞う傾向がある…。
なんとかかんとか障害という名前はともかく、そういう傾向がある人って…いますよね、そこいらに。
私にも上記のような傾向がいくつか、というより、いくつもあります。
で、O先生の言葉です。
(境界性人格障害の人の)こころを理解し、対人関係を成立させるには、想像力を働かせる必要がある。
痛みや恐れに対する感情が少ないために(痛みや恐れはあるが感情が動かないために)、生きている実感が薄いので(生きている実感が欲しいので)、たとえば自傷行為などによって実感を得ようとすることがある。
想像力を働かせることで、対人関係を創造するのだが、想像力は同時に、破壊的な作用をもたらす場合もある。
二者(カウンセラーとクライエント)は、行動ではなく想像の世界で信頼や安全を育むと同時に、傷つけたり傷つけられたりという関係を生きる。
古いメモからの抜粋で、O先生の意図からずれているかもしれませんが。
自分のことすら分からないのに、相手のことなんか分かるわけない!
だから相手も、私のことなんか分かるはずがない!
と、どこかで頑なに主張していた私の中の幼い私が、O先生の言葉によってほどけていった記憶があります。
想像することは、人と人の関係を創造することでもあります。
相手の気持ちを慮(おもんぱか)ること、想像することによって、家族・学校や職場
仕事関係・友だち、あらゆる人間関係は、建設的・促進的にも破壊的にも創造されるのかもしれません。
昭和の不良
シリーズ発売当初から、長いことヤンキーっぽい姿と語り口だった神やんですが…。
近頃は、様相がすっかり変わり、かなり神っぽくなってしまいました(笑)。
もう、あのヤンキーな神やんには、会えないのかと思っていたところ…。
夢の中で久しぶりに、金髪の神やんが現れ得意のセリフ「あんたさぁ…」を聞かせてくれました。
金髪で思い出したのが、心理関係の大師匠であるY先生の言葉。
いわゆる不良時代を経験した私にとって、Y先生の視点は大変ありがたいものです。
タバコ・お酒・金髪・パーマ・ピアス・深夜の外出・セックス、その他あらゆる不良行為。
Y先生は心理療法家に向けて、こう言いました。
「どうせ大人になれば誰だってすることだから、そうメクジラたてずに、というくらいの考えでないと、とうてい務まりません。
たしかに規範は大切です。
それより大切なのは、『傷ついたこころ』を、しっかりと包む優しさ。
もうひとつ大切なのは、悪いことは悪いと毅然と言える強さ。
両方を備え持つことが大事です」
…と。
優しいだけじゃダメ。
強いだけじゃダメ。
そういう大人が、ひとりいてくれたら子どもは自分の力で育っていきます。
ひとりで、いいんです。
私の子ども時代を支えてくれたのは、そういう、ひとりの大人でした。
その人は、どちらかというと強さが表に現れるタイプで、ちょっと怖い。
でも、ときどき見せる、ちっちゃな優しさに深みと余韻があった。
どんなに私が悪ぶっても全く気にもとめない様子で、ただ、そばにいてくれた。
あの人みたいにカッコイイ大人に、なってはいないけど、なりたい!と今でも思います。